アクセルとブレーキ

アクセルとブレーキ
男には、二つの家があった。
一つには妻と子どもたちがいる。もう一つには、かつて付き合っていた女がいる。
女を愛しているわけではない。妻と別れたいわけでもない。
それでも男は、二つの家を行き来していた。
それを、おかしいと思ったことはなかった。
第一章 二つの家
男には、家が二つあった。
一つには妻と子どもたちがいる。もう一つには、かつて付き合っていた女がいる。
女ともう一度人生をやり直したいわけではない。妻と別れたいわけでもない。
女を愛しているのかと聞かれれば、おそらく違う。
それでも男は、ときどき女の家にいた。
玄関を開けることも、部屋の中を歩くことも、そこに自分の物があることも自然だった。
二つの生活が重ならない限り、それでよかった。
少なくとも男は、そういう顔をして生きていた。
その日も、男は女の家にいた。
女は出かけていた。
気づけば、朝の四時近くになっていた。
男は時計ばかり気にしていたわけではない。何時までに帰ってこいと言った覚えもなければ、どこにいるのか確かめようとも思わなかった。
ただ、まだ帰らないのか、とは思った。
その程度だった。
部屋には女の生活が残っていた。脱いだもの。使いかけのもの。置いたままのもの。
男はそれらを見ても、特別な感情を抱かなかった。
ここに女が住んでいる。そして今、自分がいる。
それだけだった。
突然、嫌な予感がした。
音がしたわけではない。電話が鳴ったわけでもない。誰かから連絡が来たわけでもない。
ただ、身体のどこかが先に気づいた。
女の顔が浮かんだ。
そのすぐあとに、妻の顔が浮かんだ。
二人が会う。
なぜそう思ったのかは分からない。
けれど、その予感だけが妙にはっきりしていた。
男は立ち上がり、玄関へ向かった。
靴を履く。
扉を開ける。
すぐ目の前に、人がいた。
女だと思った。
帰ってきた。
そう思った。
違った。
妻だった。
素の妻が、そこにいた。
家の中では何度も見てきた顔だった。けれど、その顔が女の家の玄関先にあるだけで、男の知っている妻とは違って見えた。
妻は何も言わない。
問い詰めるでもない。怒るでもない。泣くでもない。
ほとんど無に近い表情で、男を見ていた。
男は言った。
「早く中に入りなよ」
なぜここにいる。
どうしてこの場所を知っている。
何を知っている。
一つも聞かなかった。
聞くより先に、妻を家の中へ誘導した。
女の家へ。
妻が入り、男も続いた。
扉を閉める。
それで何かを防げたわけではない。
むしろ、起きてはいけなかったことを、自分から家の中へ招き入れたようなものだった。
それでも男は妻に話しかけた。
一方的に。
普段と変わらない調子で。
沈黙さえ作らなければ、まだ何も決定的なことは起きない。
そんなふうにでも思っていたのかもしれない。
妻はほとんど答えない。
ただ男を見ている。
何かを知っている人間の顔だった。
男は話し続けた。
ここが女の家ではないように。
自分が朝の四時近くまでここにいたことにも、何の意味もないように。
妻が黙れば黙るほど、男は言葉を足した。
やがて玄関に気配がした。
女が帰ってきた。
男は見なかった。
妻への話を続けた。
女が家に入ってくる。
自分の家へ帰ってきただけなのに、その動きにはわずかな気まずさがあった。
女も何も言わなかった。
男も言わなかった。
おかえり。
どこに行っていた。
遅かったな。
そのどれも口にしない。
女の存在そのものに触れなかった。
妻にだけ話しかける。
初めて見る人間が部屋へ入ってきただけのように。
知らない。
関係ない。
自分とは何のつながりもない。
言葉ではなく、態度でそう言い続けた。
けれど、もうバレている。
それだけは分かっていた。
妻は女に話しかけない。
女も妻に話しかけない。
妻の表情はほとんど変わらなかった。
男の芝居を暴こうとさえしない。
三人いるのに、男だけが喋っていた。
会話は成立していなかった。
男には、妻がいつから知っていたのか分からなかった。
どこまで知っているのかも分からない。
聞かなかった。
妻も説明しなかった。
ただ、もう隠せてはいない。
それだけは三人とも分かっていた。
男は責められるのを待っていたのかもしれない。
怒鳴られる。
泣かれる。
離婚すると言われる。
けれど妻は、男に何も求めなかった。
男には。
何も。
その代わり、妻が向いたのは女の方だった。
妻は女に慰謝料を請求した。
男には請求しなかった。
女にだけだった。
男は理由を聞かなかった。
妻も説明しなかった。
女が何を思ったのかも分からない。
ただそのとき、男は初めて、自分が二つの家の真ん中に立っているような気がした。
妻の家。
女の家。
そのどちらにも、自分の居場所があるつもりだった。
妻が選んだのは、男ではなかった。
女だった。
責める相手として。
許されたのか。
見放されたのか。
そのどちらでもないのか。
妻の表情からは、何も読み取れなかった。
男は女を見なかった。
最後まで。
第一章 了
第二章 二万七千円
妻から聞かされたとき、男はすぐには意味が分からなかった。
「先生、探偵だから」
先生。
男には一人しか思い浮かばなかった。
子どもが通っている極真空手の先生だった。
空手を教えている人。
そして男は、その人を接骨院の先生だと思っていた。
「接骨院の先生でしょ?」
妻は、当たり前のことを訂正するように言った。
「探偵もやってるよ」
極真空手の先生。
接骨院の先生。
探偵。
三つ目だけが、どうしても同じ人間の中に収まらなかった。
「連絡取ってたの?」
「うん」
男の知らないところで、妻と先生は連絡を取っていた。
妻が依頼していた。
調べられていたのは男だった。
女とのことを。
妻にバレていること自体は、もう分かっている。
知りたいのは、その先だった。
どこまで知っているのか。
気づくと、男は公園の敷地内にいた。
先生と二人だった。
先生は空手着を着ていない。
道場でもない。
接骨院でもない。
それでも男には、目の前の人物を探偵として見ることができなかった。
先生は先生だった。
先生が写真を出した。
玄関の前。
男がいる。
隣には女がいる。
あの家だった。
顔は分かる。
同じ場所にいたことも分かる。
けれど、写っているのはそれだけだった。
抱き合ってはいない。
手もつないでいない。
男女の関係そのものが写っているわけではない。
「これが証拠ですか?」
先生は、はっきり答えなかった。
別の写真を出した。
家の中だった。
女がいる。
その奥に、男らしき影がある。
顔は分からない。
写真だけなら、一つの仮説は立つ。
女と男らしき人物が、同じ家の中にいた。
けれど、それが男本人なのか。
二人が同じ時間にいたのか。
男女の関係まで証明できるのか。
そこまでは分からない。
「ほかには?」
先生は曖昧に笑った。
「どうでしょうね」
「家の中で、二人でいるところは?」
また答えを濁した。
あるとも言わない。
ないとも言わない。
まだ隠しているのか。
そもそも撮れていないのか。
妻には全部見せたのか。
一部だけなのか。
男には判断できなかった。
「妻には、どこまで見せたんですか?」
先生は、それにも答えなかった。
男が知りたいのは、自分が何をしたのかではない。
そんなことは自分が一番よく知っている。
妻がどこまで知っているのか。
それだけだった。
結局、確かな答えは得られなかった。
確かなのは一つだけだった。
男の知らないところで、男についての話が進んでいた。
気づくと、妻が笑っていた。
公園はなかった。
先生もいなかった。
目の前にあるのはガラスのショーケースだった。
明るい照明。
磨かれた店内。
静かに並んだジュエリー。
高級ジュエリー店だった。
どうしてここにいるのか、男には分からなかった。
妻だけが、最初からここへ来る予定だったようにしている。
しかも機嫌がよかった。
笑っている。
女の家にいた妻とは、まるで違った。
怒っていてくれた方が、まだ分かりやすかった。
責められれば謝れる。
何かを要求されれば、それについて考えられる。
けれど、妻は笑っている。
そこへ店員が現れた。
男はその顔を知っていた。
生命保険の担当者だった。
妻も知っている。
以前、男の仕事の客でもあった。
友人ではない。
けれど、知らない人でもない。
その男が、高級ジュエリー店の店員として立っている。
誰も、それをおかしいとは言わなかった。
店員がショーケースを示した。
そこにネックレスがあった。
男にはすぐ分かった。
よく似たものを持っている。
以前、妻からもらったものだった。
大切なときにつけるネックレス。
ショーケースにあるのは、その新作だった。
形はほとんど変わらない。
厚みが少し違う。
見た目もわずかに違う。
けれど、知らない人が見れば同じものに見えるかもしれない。
妻が言った。
「今の、古いし」
妻は笑っている。
「ちょっとダサいじゃん」
まるで服か靴でも新調するような言い方だった。
男は戸惑った。
今持っているものも、妻からもらったものだった。
大切にしている。
それを贈った本人が、古い、ダサい、と言う。
だから新しくしよう、と。
値札が見えた。
二万七千円。
数字だけが妙にはっきりしていた。
「二万七千円?」
妻は気にしていない様子だった。
浮気はバレている。
探偵まで雇っていた。
女には慰謝料を請求した。
それなのに、なぜ自分へネックレスを買おうとしている。
男には分からなかった。
妻は買った。
二万七千円の新しいネックレスを。
男のために。
男は受け取った。
身につけはしなかった。
古いネックレス。
新しいネックレス。
妻からもらった、よく似た二つ。
どちらをどうすればいいのか分からなかった。
妻はまだ笑っていた。
その妻が、笑顔のまま離婚を告げた。
男は言葉を失った。
手元には、買ってもらったばかりのネックレスがある。
二万七千円。
新しいもの。
妻が男のために選んだもの。
その妻から離婚を告げられている。
妻の笑顔は消えなかった。
浮気。
探偵。
写真。
二万七千円。
新しいネックレス。
離婚。
どれも同じ出来事の続きのようで、どれも別々の出来事のようだった。
男は新しいネックレスを見た。
古いものと、ほとんど変わらない。
違うのは少しの厚みと、わずかな見た目だけ。
それなのに妻は、新しい方を選んだ。
男には最後まで、なぜ買ってくれたのか分からなかった。
第二章 了
第三章 いつもの家
娘が笑っていた。
妻も笑っていた。
いつもの家だった。
男には分からなかった。
全部、覚えていた。
女の家。
慰謝料。
探偵だった空手の先生。
写真。
高級ジュエリー店。
二万七千円。
新しいネックレス。
そして、離婚。
何一つ忘れていない。
それなのに、妻が笑っている。
男に普通に話しかけ、娘を見て笑い、男にも笑いかける。
何もなかった日の妻だった。
娘が家の中を横切った。
小学一年生。
百十センチほどの、小柄な娘だった。
男は目で追った。
娘が何かを言う。
妻が笑う。
娘も笑う。
男も少し遅れて笑った。
それでよかった。
いや。
それでいいことにした。
妻は何も言わない。
女のことも。
探偵のことも。
ネックレスのことも。
離婚のことも。
男も聞かなかった。
なぜ笑っている。
離婚はどうなった。
俺たちは今、どうなっている。
一つ聞けば、全部が戻ってくる気がした。
だから聞かなかった。
妻が笑えば、男も笑った。
妻が話しかければ、いつものように答えた。
娘が近づけば、いつもの父親になった。
分からないものは、分からないままにしておいた。
娘が男のそばへ来た。
近くで見ると、改めて小さかった。
細い腕。
まだ幼さの残る顔。
男を見上げる目。
可愛かった。
理由などなかった。
娘がそばにいる。
妻もいる。
自分もいる。
娘の世界では、父親は父親で、母親は母親だった。
三人で家にいる。
それだけだった。
男は、その世界にいたかった。
妻が何かを言った。
男が答えた。
妻が笑った。
男も笑った。
自分でも驚くほど普通に笑えた。
その瞬間だけなら、本当に何もなかったように見えた。
男は思った。
このままでいい。
理由など分からなくていい。
なぜ妻が笑っているのかも。
なぜ自分がここにいられるのかも。
離婚という言葉がどこへ消えたのかも。
分からなくていい。
今、妻がいる。
娘がいる。
自分もいる。
だったら、それでいい。
娘が笑った。
妻も笑った。
男も笑った。
三人の声が、いつもの家の中にあった。
男は娘を見る。
手を伸ばせば届く。
名前を呼べば振り向く。
笑えば笑い返してくれる。
その日常が本当に自分のものなのか、男は確かめなかった。
確かめれば、なくなる気がした。
だから何も聞かなかった。
いつもの父親でいた。
いつもの夫でいた。
何も知らない人間のように。
本当は、全部知っているのに。
娘がまた笑った。
今度は、男も少しも遅れずに笑った。
考えないことだけが、この家を失わない方法だった。
第三章 了
第四章 アクセルとブレーキ
公園にいた。
妻がいた。
娘がいた。
男もいた。
第三章と同じ三人だった。
けれど妻はもう、妻ではないように見えた。
少し離れたところから男を見ている。
笑っていない。
泣いてもいない。
怒りはあった。
嫌悪もあった。
呆れもあった。
もう何一つ隠していなかった。
男を見る目に、夫を見る温度がない。
知らない男。
関わりたくない男。
自分と娘の生活から切り離す人間。
その程度の距離に、男はいた。
妻は遠かった。
娘は近かった。
娘は男のそばで笑っていた。
娘の中では、何一つ終わっていない。
男はまだ父親だった。
パパだった。
妻の中では、全部が終わっている。
男だけが、その二つの世界の間にいた。
公園の敷地内に、有料のゴーカートがあった。
娘は嬉しそうだった。
小学一年生。
百十センチほどの小柄な身体。
娘はゴーカートを見る。
妻は男を見る。
娘の目には、これから始まる遊びがある。
妻の目には、これから終わらせる関係がある。
男は娘とゴーカートに乗った。
娘が前。
男がすぐ後ろ。
娘が小さな両手でハンドルを握った。
男は自然に、娘自身に運転させようとした。
娘が足を伸ばす。
アクセル。
届かない。
ブレーキ。
そちらにも届かない。
お尻を少し浮かせるように身体を前へずらし、もう一度足を伸ばす。
あと少し。
大きく身体をずらせば、足先がぎりぎり触れられそうだった。
けれど、普通に座っていては届かない。
男はその姿を見た。
まだ小さい。
本当に、まだ小さかった。
今は届かなくても、いつか届く。
娘には、その「いつか」がある。
男には、なくなろうとしていた。
妻を見た。
そこで男は分かった。
娘には、もう会えない。
しばらく会えないのではない。
別々に暮らすというだけでもない。
男の中では、もっと絶対的だった。
二度と。
永遠に。
会えない。
男は娘を見る。
今はアクセルにも届かない。
ブレーキにも届かない。
その小さな身体が、自分の知らないところで大きくなる。
二年生になる。
三年生になる。
背が伸びる。
今は届かないものへ、届くようになる。
その全部から、自分だけがいなくなる。
男には耐えられなかった。
娘のいない明日を、生きられる気がしなかった。
男は妻を見た。
「俺、自殺する」
妻の顔が動いた。
悲しみではない。
心配でもない。
呆れだった。
そして怒りだった。
「……だから?」
男は黙った。
「それを私に言って、どうしてほしいの?」
男は答えられない。
「止めてほしいの?」
違う、と言おうとした。
声にならなかった。
「もう、あなたがどうするかまで私に背負わせないで」
冷たかった。
けれど、理由のない冷たさではなかった。
妻は傷ついていた。
怒っていた。
呆れていた。
その全部を男のために隠す必要が、もうなかった。
男は、それでも言った。
「一つだけお願いがある」
「葬式だけは、娘と一緒に来てほしい」
妻の目が変わった。
「最後まで、この子を巻き込むの?」
「違う」
「何が違うの?」
「会いたいだけなんだ」
妻はすぐに返した。
「だったら生きればいいでしょ」
男は何も言えなかった。
「自分で自殺するって決めて、その葬式にこの子を連れてこいって?」
妻は泣かなかった。
声も震えない。
「全部、自分の都合じゃない」
男は否定できなかった。
妻は男ではなく、娘を見た。
「……連れていく」
男が顔を上げる。
「葬式には連れていく」
そこに優しさはなかった。
「でも、もうこの子を巻き込まないで」
その言葉の方が、自殺するという自分の言葉より重かった。
妻の中では、もう「私たちの娘」ではない。
男から守るべき「この子」になっていた。
男は家族の外にいた。
娘が男を見た。
笑っている。
何も知らない。
男が自殺すると言ったことも。
自分の葬式の話をしていたことも。
娘にとって、男はまだパパだった。
妻は男を家族の外へ出した。
娘は男をまだ家族の中に置いている。
自殺する。
葬式には娘が来る。
それで終わる。
そう思おうとした。
けれど娘は今、目の前にいる。
生きている。
笑っている。
手を伸ばせば届く。
死んだあとに会うのでは、足りなかった。
今、一緒にいたかった。
男は妻の位置を見た。
そして娘と、もう一度ゴーカートへ入った。
妻から見えないように。
さっきとは座り方を変えた。
娘を前へ。
ハンドルを握らせる。
男はその後ろへ潜り込んだ。
背中を丸める。
頭を下げる。
膝を折る。
もっと小さく。
大人一人が、子どもの後ろに隠れようとしていた。
隠れられるはずなどない。
それでも隠れた。
自殺すると言った人間が、妻から隠れていた。
娘と、あと少し一緒にいるためだけに。
男は身体をねじった。
右手を下へ伸ばす。
アクセル。
左手を伸ばす。
ブレーキ。
本来は足で踏むペダルを、男は手で押した。
苦しい姿勢だった。
それでも娘にはハンドルを握らせた。
男がアクセルを押す。
ゴーカートが動いた。
娘が笑う。
妻は笑わない。
娘は前を見る。
妻は男を見る。
娘が右へ曲がる。
妻は動かない。
娘が左へ曲がる。
妻は遠くに立っている。
娘の世界では、父親と遊んでいる。
妻の世界では、もう赤の他人に近い男が娘から離れようとしない。
その間で、男は必死にアクセルを押した。
もう少しだけ。
あと一周。
これが終われば離れる。
そう思った。
けれど、一周では足りなかった。
あと一周。
あと一分。
あと十秒。
何を足しても足りない。
男は娘の足を見る。
まだ届かない。
けれど、いつか届く。
来年かもしれない。
その次かもしれない。
身体をずらさなくてもアクセルに届く。
ブレーキにも届く。
一人で進める。
一人で止まれる。
その瞬間を見たくなった。
自殺すると決めたあとで。
来年を見たくなった。
二年後も。
五年後も。
十年後も。
娘が大きくなるところを、全部見たかった。
男はようやく分かった。
死にたかったわけではない。
娘と離れたくなかった。
気配がした。
顔を上げなくても分かった。
妻だった。
見つかった。
右手はアクセルにある。
左手はブレーキのそばにある。
「何してるの?」
低い声だった。
男は答えられない。
「もうやめて」
「この子を巻き込まないでって言ったよね」
男は娘を見る。
娘は何も知らず、ハンドルを握っている。
「自分がつらいからって、この子まで付き合わせないで」
男には何も言い返せなかった。
「もう私たちは終わってるの」
妻の顔には涙がなかった。
情もなかった。
怒りと嫌悪と、もう関わりたくないという拒絶だけがあった。
妻にとって、男はもう夫ではなかった。
娘が振り返る。
娘の顔は違った。
そこには、まだ父親がいた。
男はその顔を見た瞬間、泣いた。
妻に何を言われても泣かなかった。
自殺すると言ったときにも泣かなかった。
けれど娘の中には、まだ自分が「パパ」として残っている。
それだけは耐えられなかった。
妻はもう妻ではなかった。
娘だけが、まだ娘だった。
男だけが、まだ父親でいたかった。
身体を起こせなかった。
起き上がれば終わる。
娘から離れる。
だから、みっともなくうずくまった。
泣いた。
妻は慰めなかった。
男が娘から離れるのを、ただ待っていた。
男は娘を見る。
まだ小さい。
まだペダルにも届かない。
それなのに、自分はもう、この子が大きくなるところを見ることができない。
そのまま、永遠の別れが来た。
第四章 了
第五章 拾わなくていいもの
家にいた。
妻がいた。
娘がいた。
男もいた。
何事もなかったような朝だった。
妻はいつもの妻だった。
娘もいつもの娘だった。
家の中には、いつもの生活の音がある。
妻が何かを片づける音。
娘が歩く音。
テレビから聞こえる声。
妻が男へ普通に話しかけた。
男も普通に答えた。
娘が笑う。
妻も笑う。
男も笑った。
三人は、どこから見ても家族だった。
男だけが、全部覚えていた。
女の家。
朝の四時。
玄関の前にいた素の妻。
探偵だった空手の先生。
写真。
二万七千円。
離婚。
何事もなかった自宅。
公園。
冷たい妻。
ゴーカート。
自殺すると言った自分。
葬式に娘を連れてきてほしいと頼んだ自分。
娘の後ろに隠れ、右手でアクセルを、左手でブレーキを押した自分。
妻に見つかり、泣いた自分。
永遠の別れ。
全部、男の中に残っていた。
それなのに妻はここにいる。
娘もいる。
自分もいる。
男は何も聞かなかった。
妻も何も言わなかった。
娘が自分の話をしていた。
これからどうしたいのか。
何を選びたいのか。
男は聞いていた。
反射的に口を開きかけた。
それなら、こうした方がいい。
こっちの方がいい。
その方がきっと後で困らない。
言おうと思えば、いくらでも言えた。
大人だから。
父親だから。
娘より長く生きているから。
娘がまだ知らないことを、男はいくつも知っている。
だから教えることができる。
止めることもできる。
背中を押すこともできる。
別のものを勧めることもできる。
男は娘の顔を見た。
娘は、自分のことを自分の言葉で話していた。
男は開きかけた口を閉じた。
「そうしたいの?」
娘は頷いた。
「うん」
男は、それ以上何も言わなかった。
それが正しいのかは分からない。
父親として、もっと言うべきことがあるのかもしれない。
何も言わないことだって、場合によっては無責任なのかもしれない。
けれど、娘は自分のことを自分で決めようとしていた。
男は、それを聞いていた。
男はごみ袋を持った。
娘が気づいた。
「パパ、どこ行くの?」
「ごみ拾い」
「今日も?」
「うん」
男には、ごみを拾う習慣があった。
誰かに頼まれたわけではない。
仕事でもない。
誰かに見てもらうためでもない。
誰もいない朝にも拾った。
誰にも見られていない道でも拾った。
名前を知られることもない。
礼を言われることもない。
空き缶を一つ拾ったところで、世界が大きく変わるわけでもない。
昨日きれいにした道に、今日またごみが落ちていることもある。
それでも男は拾った。
誰かが踏むかもしれない。
誰かが嫌な気持ちになるかもしれない。
風に飛ばされるかもしれない。
なら、自分が拾えばいい。
それだけだった。
不思議なことに、人のためにやっているはずの小さな行為が、最後には男自身へ戻ってきた。
一つ拾う。
少し歩く。
また一つ拾う。
そうしていると、自分の中に溜まっていたものまで少しずつ片づいていく気がした。
誰にも見られていないところでしたことが、巡り巡って自分を少し軽くする。
男は、それが好きだった。
娘が言った。
「一緒に行く」
「行く?」
「うん」
男は妻を見た。
妻は何も言わない。
いつもの顔だった。
「じゃあ、行こう」
二人で歩いた。
娘が少し前。
男が少し後ろ。
空き缶が落ちていた。
男が拾う。
袋へ入れる。
少し先に菓子の袋があった。
「あった」
娘が拾う。
男が袋を開く。
娘が入れる。
また歩く。
男は娘の後ろ姿を見た。
小学一年生。
百十センチほどの小さな身体。
ゴーカートでは、アクセルにもブレーキにも届かなかった。
けれど今は、自分の足で歩いている。
男が何もしなくても進む。
止まりたいところで止まる。
何かを見つければ自分で近づく。
そして、また歩き出す。
娘が道端で止まった。
何かが落ちている。
男も気づいた。
いつものように屈み、手を伸ばした。
「パパ、それは拾わなくていいよ」
手が止まった。
「なんで?」
娘は足元を見た。
何でもないことのように言った。
「だって、それゴミじゃないもん」
男は伸ばした手を止めたまま、足元を見た。
何なのかは分からなかった。
誰かが落としたものなのか。
誰かが置いたものなのか。
必要なものなのか。
もう要らないものなのか。
男には分からない。
それでも娘には、ゴミではないものに見えた。
男はゆっくり手を戻した。
拾わなかった。
娘はもう別の場所を見ていた。
娘にとっては、それだけのことだった。
ゴミじゃない。
だから拾わない。
二人はまた歩いた。
ごみ袋は少し重くなっていた。
男は思った。
落ちているものを見つけると、何でも拾おうとしていたのかもしれない。
誰かのため。
娘のため。
家族のため。
そう言えば、いくらでも拾う理由は作れる。
けれど、人のために何かをすることと、その人のものまで自分が抱えることは、同じなのだろうか。
男には分からなかった。
分からないままで歩いた。
道が二つに分かれた。
右。
左。
娘が止まった。
男も止まった。
右の方が近そうだった。
左の方が歩きやすそうにも見える。
どちらが安全か。
どちらが失敗しないか。
男は考え始めた。
父親なら、決めてやった方がいい。
そんな考えが、いつものように浮かんだ。
その前に、娘が片方を指差した。
「こっち」
「なんで?」
娘は少し考えた。
「なんとなく」
それだけだった。
男なら理由をいくつも作れた。
安全だから。
近いから。
将来のためになるから。
失敗しにくいから。
けれど、娘が選んだ理由は「なんとなく」だった。
娘は、自分が選んだ道へ歩き出した。
男は止めなかった。
別の道を勧めなかった。
少し遅れて、その道へ入った。
男は娘の背中を見ながら、ゴーカートを思い出した。
娘はハンドルを握っていた。
アクセルには届かなかった。
ブレーキにも届かなかった。
だから男がやった。
進ませた。
止めた。
娘が小さかったから。
父親だったから。
それは間違っていなかった。
たぶん。
あのときは。
けれど娘の足は伸びる。
身体は大きくなる。
今日届かなかったものへ、いつか届く。
そのとき、自分の手はどこにあればいいのだろう。
男は答えを出さなかった。
娘が戻ってきて、何も言わず男の手を握った。
小さな手だった。
男も握り返した。
この手を失うくらいなら、自分の命などいらないと思ったことを覚えている。
それほど娘が大切だった。
何よりも。
自分よりも。
だからこそ、離したくなかった。
危ないものは全部取り除いてやりたい。
間違った道へ行きそうなら止めたい。
止まってしまえば背中を押したい。
それが愛なのだと、男は思っていた。
今も、そうなのかもしれない。
ただ。
愛していることと、握り続けることは同じなのだろうか。
男には、まだ分からなかった。
娘が突然、手を離した。
「あっ」
何かを見つけ、数歩先へ走っていく。
男の手には、何もなくなった。
男は空になった手を見た。
公園では、右手にアクセルがあった。
左手にはブレーキがあった。
進ませるもの。
止めるもの。
どちらも男の手の中にあった。
今は何もない。
娘は自分で走った。
自分で止まった。
しゃがんだ。
立った。
また、自分で歩き出した。
男はその姿を見ていた。
少し先で娘が振り返った。
「パパ」
「ん?」
「早く」
男は歩いた。
娘に追いつく。
二人で並ぶ。
今度は娘も手を握らなかった。
男も手を伸ばさなかった。
娘が進めば、男も歩く。
娘が止まれば、男も少し遅れて止まる。
けれど男が進ませているわけではない。
男が止めているわけでもない。
娘は、自分で歩いていた。
男は胸元に触れた。
古いネックレスがあった。
妻からもらったもの。
大切なときにつけてきたもの。
古くて、少しダサいと言われたもの。
新しいものへ替えなければならないのか。
古いものは捨てるべきなのか。
持ち続けることは執着なのか。
大切にすることなのか。
男には分からなかった。
ネックレスは外さなかった。
けれど、強く握ることもしなかった。
指を離した。
ネックレスは、そのまま胸元に残った。
また何かが道端に落ちていた。
男は気づいた。
けれど、足を止めなかった。
拾うべきものなのか。
拾わなくていいものなのか。
まだ分からない。
娘は少し先を歩いている。
そして、もう一つの分かれ道で止まった。
「パパ」
「何?」
娘が、片方の道を指差した。
「こっち行ってみたい」
男はその先を見た。
知らない道だった。
どこへ続くのか、男にも分からない。
「そっちでいいの?」
娘は頷いた。
「うん」
娘は歩き出した。
男は、その小さな背中を見た。
小学一年生。
百十センチほど。
まだ、できないことはいくらでもある。
父親の手が必要なことも、きっとこれから何度もある。
けれど、今日できなかったことが、明日はできるかもしれない。
届かなかったところへ、いつか届く。
男は少し遅れて歩き出した。
娘が歩く。
男も歩く。
アクセルはない。
ブレーキもない。
ハンドルさえない。
娘は自分の足で進んでいる。
男も、自分の足で進んでいる。
同じ速さではない。
同じものを見ているとも限らない。
いつまで同じ道を歩くのかも分からない。
男は娘を呼び止めなかった。
手も伸ばさなかった。
ただ、その背中が見えるところを歩いた。
娘が先で振り返った。
男を見た。
何も言わず、また前を向いた。
男も前を向いた。
片手には、拾ったごみの入った袋があった。
もう片方の手には、何もなかった。
男は、その手を握らなかった。
何かを拾おうともしなかった。
娘が選んだ道を、
少し後ろから歩いた。
アクセルにも、
ブレーキにも、
もう手は伸ばさなかった。
第五章 了
おわり


