アクセルとブレーキ

アクセルとブレーキ

ORIGINAL NOVEL

男には、二つの家があった。

一つには妻と子どもたちがいる。もう一つには、かつて付き合っていた女がいる。

女を愛しているわけではない。妻と別れたいわけでもない。

それでも男は、二つの家を行き来していた。

それを、おかしいと思ったことはなかった。

第一章 二つの家

男には、家が二つあった。

一つには妻と子どもたちがいる。もう一つには、かつて付き合っていた女がいる。

女ともう一度人生をやり直したいわけではない。妻と別れたいわけでもない。

女を愛しているのかと聞かれれば、おそらく違う。

それでも男は、ときどき女の家にいた。

玄関を開けることも、部屋の中を歩くことも、そこに自分の物があることも自然だった。

二つの生活が重ならない限り、それでよかった。

少なくとも男は、そういう顔をして生きていた。

* * *

その日も、男は女の家にいた。

女は出かけていた。

気づけば、朝の四時近くになっていた。

男は時計ばかり気にしていたわけではない。何時までに帰ってこいと言った覚えもなければ、どこにいるのか確かめようとも思わなかった。

ただ、まだ帰らないのか、とは思った。

その程度だった。

部屋には女の生活が残っていた。脱いだもの。使いかけのもの。置いたままのもの。

男はそれらを見ても、特別な感情を抱かなかった。

ここに女が住んでいる。そして今、自分がいる。

それだけだった。

突然、嫌な予感がした。

音がしたわけではない。電話が鳴ったわけでもない。誰かから連絡が来たわけでもない。

ただ、身体のどこかが先に気づいた。

女の顔が浮かんだ。

そのすぐあとに、妻の顔が浮かんだ。

二人が会う。

なぜそう思ったのかは分からない。

けれど、その予感だけが妙にはっきりしていた。

男は立ち上がり、玄関へ向かった。

靴を履く。

扉を開ける。

すぐ目の前に、人がいた。

女だと思った。

帰ってきた。

そう思った。

違った。

妻だった。

素の妻が、そこにいた。

家の中では何度も見てきた顔だった。けれど、その顔が女の家の玄関先にあるだけで、男の知っている妻とは違って見えた。

妻は何も言わない。

問い詰めるでもない。怒るでもない。泣くでもない。

ほとんど無に近い表情で、男を見ていた。

男は言った。

「早く中に入りなよ」

なぜここにいる。

どうしてこの場所を知っている。

何を知っている。

一つも聞かなかった。

聞くより先に、妻を家の中へ誘導した。

女の家へ。

* * *

妻が入り、男も続いた。

扉を閉める。

それで何かを防げたわけではない。

むしろ、起きてはいけなかったことを、自分から家の中へ招き入れたようなものだった。

それでも男は妻に話しかけた。

一方的に。

普段と変わらない調子で。

沈黙さえ作らなければ、まだ何も決定的なことは起きない。

そんなふうにでも思っていたのかもしれない。

妻はほとんど答えない。

ただ男を見ている。

何かを知っている人間の顔だった。

男は話し続けた。

ここが女の家ではないように。

自分が朝の四時近くまでここにいたことにも、何の意味もないように。

妻が黙れば黙るほど、男は言葉を足した。

やがて玄関に気配がした。

女が帰ってきた。

男は見なかった。

妻への話を続けた。

女が家に入ってくる。

自分の家へ帰ってきただけなのに、その動きにはわずかな気まずさがあった。

女も何も言わなかった。

男も言わなかった。

おかえり。

どこに行っていた。

遅かったな。

そのどれも口にしない。

女の存在そのものに触れなかった。

妻にだけ話しかける。

初めて見る人間が部屋へ入ってきただけのように。

知らない。

関係ない。

自分とは何のつながりもない。

言葉ではなく、態度でそう言い続けた。

けれど、もうバレている。

それだけは分かっていた。

妻は女に話しかけない。

女も妻に話しかけない。

妻の表情はほとんど変わらなかった。

男の芝居を暴こうとさえしない。

三人いるのに、男だけが喋っていた。

会話は成立していなかった。

* * *

男には、妻がいつから知っていたのか分からなかった。

どこまで知っているのかも分からない。

聞かなかった。

妻も説明しなかった。

ただ、もう隠せてはいない。

それだけは三人とも分かっていた。

男は責められるのを待っていたのかもしれない。

怒鳴られる。

泣かれる。

離婚すると言われる。

けれど妻は、男に何も求めなかった。

男には。

何も。

その代わり、妻が向いたのは女の方だった。

妻は女に慰謝料を請求した。

男には請求しなかった。

女にだけだった。

男は理由を聞かなかった。

妻も説明しなかった。

女が何を思ったのかも分からない。

ただそのとき、男は初めて、自分が二つの家の真ん中に立っているような気がした。

妻の家。

女の家。

そのどちらにも、自分の居場所があるつもりだった。

妻が選んだのは、男ではなかった。

女だった。

責める相手として。

許されたのか。

見放されたのか。

そのどちらでもないのか。

妻の表情からは、何も読み取れなかった。

男は女を見なかった。

最後まで。

第一章 了

第二章 二万七千円

妻から聞かされたとき、男はすぐには意味が分からなかった。

「先生、探偵だから」

先生。

男には一人しか思い浮かばなかった。

子どもが通っている極真空手の先生だった。

空手を教えている人。

そして男は、その人を接骨院の先生だと思っていた。

「接骨院の先生でしょ?」

妻は、当たり前のことを訂正するように言った。

「探偵もやってるよ」

極真空手の先生。

接骨院の先生。

探偵。

三つ目だけが、どうしても同じ人間の中に収まらなかった。

「連絡取ってたの?」

「うん」

男の知らないところで、妻と先生は連絡を取っていた。

妻が依頼していた。

調べられていたのは男だった。

女とのことを。

妻にバレていること自体は、もう分かっている。

知りたいのは、その先だった。

どこまで知っているのか。

* * *

気づくと、男は公園の敷地内にいた。

先生と二人だった。

先生は空手着を着ていない。

道場でもない。

接骨院でもない。

それでも男には、目の前の人物を探偵として見ることができなかった。

先生は先生だった。

先生が写真を出した。

玄関の前。

男がいる。

隣には女がいる。

あの家だった。

顔は分かる。

同じ場所にいたことも分かる。

けれど、写っているのはそれだけだった。

抱き合ってはいない。

手もつないでいない。

男女の関係そのものが写っているわけではない。

「これが証拠ですか?」

先生は、はっきり答えなかった。

別の写真を出した。

家の中だった。

女がいる。

その奥に、男らしき影がある。

顔は分からない。

写真だけなら、一つの仮説は立つ。

女と男らしき人物が、同じ家の中にいた。

けれど、それが男本人なのか。

二人が同じ時間にいたのか。

男女の関係まで証明できるのか。

そこまでは分からない。

「ほかには?」

先生は曖昧に笑った。

「どうでしょうね」

「家の中で、二人でいるところは?」

また答えを濁した。

あるとも言わない。

ないとも言わない。

まだ隠しているのか。

そもそも撮れていないのか。

妻には全部見せたのか。

一部だけなのか。

男には判断できなかった。

「妻には、どこまで見せたんですか?」

先生は、それにも答えなかった。

男が知りたいのは、自分が何をしたのかではない。

そんなことは自分が一番よく知っている。

妻がどこまで知っているのか。

それだけだった。

結局、確かな答えは得られなかった。

確かなのは一つだけだった。

男の知らないところで、男についての話が進んでいた。

* * *

気づくと、妻が笑っていた。

公園はなかった。

先生もいなかった。

目の前にあるのはガラスのショーケースだった。

明るい照明。

磨かれた店内。

静かに並んだジュエリー。

高級ジュエリー店だった。

どうしてここにいるのか、男には分からなかった。

妻だけが、最初からここへ来る予定だったようにしている。

しかも機嫌がよかった。

笑っている。

女の家にいた妻とは、まるで違った。

怒っていてくれた方が、まだ分かりやすかった。

責められれば謝れる。

何かを要求されれば、それについて考えられる。

けれど、妻は笑っている。

そこへ店員が現れた。

男はその顔を知っていた。

生命保険の担当者だった。

妻も知っている。

以前、男の仕事の客でもあった。

友人ではない。

けれど、知らない人でもない。

その男が、高級ジュエリー店の店員として立っている。

誰も、それをおかしいとは言わなかった。

店員がショーケースを示した。

そこにネックレスがあった。

男にはすぐ分かった。

よく似たものを持っている。

以前、妻からもらったものだった。

大切なときにつけるネックレス。

ショーケースにあるのは、その新作だった。

形はほとんど変わらない。

厚みが少し違う。

見た目もわずかに違う。

けれど、知らない人が見れば同じものに見えるかもしれない。

妻が言った。

「今の、古いし」

妻は笑っている。

「ちょっとダサいじゃん」

まるで服か靴でも新調するような言い方だった。

男は戸惑った。

今持っているものも、妻からもらったものだった。

大切にしている。

それを贈った本人が、古い、ダサい、と言う。

だから新しくしよう、と。

値札が見えた。

二万七千円。

数字だけが妙にはっきりしていた。

「二万七千円?」

妻は気にしていない様子だった。

浮気はバレている。

探偵まで雇っていた。

女には慰謝料を請求した。

それなのに、なぜ自分へネックレスを買おうとしている。

男には分からなかった。

妻は買った。

二万七千円の新しいネックレスを。

男のために。

男は受け取った。

身につけはしなかった。

古いネックレス。

新しいネックレス。

妻からもらった、よく似た二つ。

どちらをどうすればいいのか分からなかった。

妻はまだ笑っていた。

* * *

その妻が、笑顔のまま離婚を告げた。

男は言葉を失った。

手元には、買ってもらったばかりのネックレスがある。

二万七千円。

新しいもの。

妻が男のために選んだもの。

その妻から離婚を告げられている。

妻の笑顔は消えなかった。

浮気。

探偵。

写真。

二万七千円。

新しいネックレス。

離婚。

どれも同じ出来事の続きのようで、どれも別々の出来事のようだった。

男は新しいネックレスを見た。

古いものと、ほとんど変わらない。

違うのは少しの厚みと、わずかな見た目だけ。

それなのに妻は、新しい方を選んだ。

男には最後まで、なぜ買ってくれたのか分からなかった。

第二章 了

第三章 いつもの家

娘が笑っていた。

妻も笑っていた。

いつもの家だった。

男には分からなかった。

全部、覚えていた。

女の家。

慰謝料。

探偵だった空手の先生。

写真。

高級ジュエリー店。

二万七千円。

新しいネックレス。

そして、離婚。

何一つ忘れていない。

それなのに、妻が笑っている。

男に普通に話しかけ、娘を見て笑い、男にも笑いかける。

何もなかった日の妻だった。

* * *

娘が家の中を横切った。

小学一年生。

百十センチほどの、小柄な娘だった。

男は目で追った。

娘が何かを言う。

妻が笑う。

娘も笑う。

男も少し遅れて笑った。

それでよかった。

いや。

それでいいことにした。

妻は何も言わない。

女のことも。

探偵のことも。

ネックレスのことも。

離婚のことも。

男も聞かなかった。

なぜ笑っている。

離婚はどうなった。

俺たちは今、どうなっている。

一つ聞けば、全部が戻ってくる気がした。

だから聞かなかった。

妻が笑えば、男も笑った。

妻が話しかければ、いつものように答えた。

娘が近づけば、いつもの父親になった。

分からないものは、分からないままにしておいた。

* * *

娘が男のそばへ来た。

近くで見ると、改めて小さかった。

細い腕。

まだ幼さの残る顔。

男を見上げる目。

可愛かった。

理由などなかった。

娘がそばにいる。

妻もいる。

自分もいる。

娘の世界では、父親は父親で、母親は母親だった。

三人で家にいる。

それだけだった。

男は、その世界にいたかった。

* * *

妻が何かを言った。

男が答えた。

妻が笑った。

男も笑った。

自分でも驚くほど普通に笑えた。

その瞬間だけなら、本当に何もなかったように見えた。

男は思った。

このままでいい。

理由など分からなくていい。

なぜ妻が笑っているのかも。

なぜ自分がここにいられるのかも。

離婚という言葉がどこへ消えたのかも。

分からなくていい。

今、妻がいる。

娘がいる。

自分もいる。

だったら、それでいい。

* * *

娘が笑った。

妻も笑った。

男も笑った。

三人の声が、いつもの家の中にあった。

男は娘を見る。

手を伸ばせば届く。

名前を呼べば振り向く。

笑えば笑い返してくれる。

その日常が本当に自分のものなのか、男は確かめなかった。

確かめれば、なくなる気がした。

だから何も聞かなかった。

いつもの父親でいた。

いつもの夫でいた。

何も知らない人間のように。

本当は、全部知っているのに。

娘がまた笑った。

今度は、男も少しも遅れずに笑った。

考えないことだけが、この家を失わない方法だった。

第三章 了

第四章 アクセルとブレーキ

公園にいた。

妻がいた。

娘がいた。

男もいた。

第三章と同じ三人だった。

けれど妻はもう、妻ではないように見えた。

少し離れたところから男を見ている。

笑っていない。

泣いてもいない。

怒りはあった。

嫌悪もあった。

呆れもあった。

もう何一つ隠していなかった。

男を見る目に、夫を見る温度がない。

知らない男。

関わりたくない男。

自分と娘の生活から切り離す人間。

その程度の距離に、男はいた。

妻は遠かった。

娘は近かった。

娘は男のそばで笑っていた。

娘の中では、何一つ終わっていない。

男はまだ父親だった。

パパだった。

妻の中では、全部が終わっている。

男だけが、その二つの世界の間にいた。

* * *

公園の敷地内に、有料のゴーカートがあった。

娘は嬉しそうだった。

小学一年生。

百十センチほどの小柄な身体。

娘はゴーカートを見る。

妻は男を見る。

娘の目には、これから始まる遊びがある。

妻の目には、これから終わらせる関係がある。

男は娘とゴーカートに乗った。

娘が前。

男がすぐ後ろ。

娘が小さな両手でハンドルを握った。

男は自然に、娘自身に運転させようとした。

娘が足を伸ばす。

アクセル。

届かない。

ブレーキ。

そちらにも届かない。

お尻を少し浮かせるように身体を前へずらし、もう一度足を伸ばす。

あと少し。

大きく身体をずらせば、足先がぎりぎり触れられそうだった。

けれど、普通に座っていては届かない。

男はその姿を見た。

まだ小さい。

本当に、まだ小さかった。

今は届かなくても、いつか届く。

娘には、その「いつか」がある。

男には、なくなろうとしていた。

* * *

妻を見た。

そこで男は分かった。

娘には、もう会えない。

しばらく会えないのではない。

別々に暮らすというだけでもない。

男の中では、もっと絶対的だった。

二度と。

永遠に。

会えない。

男は娘を見る。

今はアクセルにも届かない。

ブレーキにも届かない。

その小さな身体が、自分の知らないところで大きくなる。

二年生になる。

三年生になる。

背が伸びる。

今は届かないものへ、届くようになる。

その全部から、自分だけがいなくなる。

男には耐えられなかった。

娘のいない明日を、生きられる気がしなかった。

男は妻を見た。

「俺、自殺する」

妻の顔が動いた。

悲しみではない。

心配でもない。

呆れだった。

そして怒りだった。

「……だから?」

男は黙った。

「それを私に言って、どうしてほしいの?」

男は答えられない。

「止めてほしいの?」

違う、と言おうとした。

声にならなかった。

「もう、あなたがどうするかまで私に背負わせないで」

冷たかった。

けれど、理由のない冷たさではなかった。

妻は傷ついていた。

怒っていた。

呆れていた。

その全部を男のために隠す必要が、もうなかった。

男は、それでも言った。

「一つだけお願いがある」

「葬式だけは、娘と一緒に来てほしい」

妻の目が変わった。

「最後まで、この子を巻き込むの?」

「違う」

「何が違うの?」

「会いたいだけなんだ」

妻はすぐに返した。

「だったら生きればいいでしょ」

男は何も言えなかった。

「自分で自殺するって決めて、その葬式にこの子を連れてこいって?」

妻は泣かなかった。

声も震えない。

「全部、自分の都合じゃない」

男は否定できなかった。

妻は男ではなく、娘を見た。

「……連れていく」

男が顔を上げる。

「葬式には連れていく」

そこに優しさはなかった。

「でも、もうこの子を巻き込まないで」

その言葉の方が、自殺するという自分の言葉より重かった。

妻の中では、もう「私たちの娘」ではない。

男から守るべき「この子」になっていた。

男は家族の外にいた。

* * *

娘が男を見た。

笑っている。

何も知らない。

男が自殺すると言ったことも。

自分の葬式の話をしていたことも。

娘にとって、男はまだパパだった。

妻は男を家族の外へ出した。

娘は男をまだ家族の中に置いている。

自殺する。

葬式には娘が来る。

それで終わる。

そう思おうとした。

けれど娘は今、目の前にいる。

生きている。

笑っている。

手を伸ばせば届く。

死んだあとに会うのでは、足りなかった。

今、一緒にいたかった。

* * *

男は妻の位置を見た。

そして娘と、もう一度ゴーカートへ入った。

妻から見えないように。

さっきとは座り方を変えた。

娘を前へ。

ハンドルを握らせる。

男はその後ろへ潜り込んだ。

背中を丸める。

頭を下げる。

膝を折る。

もっと小さく。

大人一人が、子どもの後ろに隠れようとしていた。

隠れられるはずなどない。

それでも隠れた。

自殺すると言った人間が、妻から隠れていた。

娘と、あと少し一緒にいるためだけに。

男は身体をねじった。

右手を下へ伸ばす。

アクセル。

左手を伸ばす。

ブレーキ。

本来は足で踏むペダルを、男は手で押した。

苦しい姿勢だった。

それでも娘にはハンドルを握らせた。

男がアクセルを押す。

ゴーカートが動いた。

娘が笑う。

妻は笑わない。

娘は前を見る。

妻は男を見る。

娘が右へ曲がる。

妻は動かない。

娘が左へ曲がる。

妻は遠くに立っている。

娘の世界では、父親と遊んでいる。

妻の世界では、もう赤の他人に近い男が娘から離れようとしない。

その間で、男は必死にアクセルを押した。

* * *

もう少しだけ。

あと一周。

これが終われば離れる。

そう思った。

けれど、一周では足りなかった。

あと一周。

あと一分。

あと十秒。

何を足しても足りない。

男は娘の足を見る。

まだ届かない。

けれど、いつか届く。

来年かもしれない。

その次かもしれない。

身体をずらさなくてもアクセルに届く。

ブレーキにも届く。

一人で進める。

一人で止まれる。

その瞬間を見たくなった。

自殺すると決めたあとで。

来年を見たくなった。

二年後も。

五年後も。

十年後も。

娘が大きくなるところを、全部見たかった。

男はようやく分かった。

死にたかったわけではない。

娘と離れたくなかった。

* * *

気配がした。

顔を上げなくても分かった。

妻だった。

見つかった。

右手はアクセルにある。

左手はブレーキのそばにある。

「何してるの?」

低い声だった。

男は答えられない。

「もうやめて」

「この子を巻き込まないでって言ったよね」

男は娘を見る。

娘は何も知らず、ハンドルを握っている。

「自分がつらいからって、この子まで付き合わせないで」

男には何も言い返せなかった。

「もう私たちは終わってるの」

妻の顔には涙がなかった。

情もなかった。

怒りと嫌悪と、もう関わりたくないという拒絶だけがあった。

妻にとって、男はもう夫ではなかった。

娘が振り返る。

娘の顔は違った。

そこには、まだ父親がいた。

男はその顔を見た瞬間、泣いた。

妻に何を言われても泣かなかった。

自殺すると言ったときにも泣かなかった。

けれど娘の中には、まだ自分が「パパ」として残っている。

それだけは耐えられなかった。

妻はもう妻ではなかった。

娘だけが、まだ娘だった。

男だけが、まだ父親でいたかった。

身体を起こせなかった。

起き上がれば終わる。

娘から離れる。

だから、みっともなくうずくまった。

泣いた。

妻は慰めなかった。

男が娘から離れるのを、ただ待っていた。

男は娘を見る。

まだ小さい。

まだペダルにも届かない。

それなのに、自分はもう、この子が大きくなるところを見ることができない。

そのまま、永遠の別れが来た。

第四章 了

第五章 拾わなくていいもの

家にいた。

妻がいた。

娘がいた。

男もいた。

何事もなかったような朝だった。

妻はいつもの妻だった。

娘もいつもの娘だった。

家の中には、いつもの生活の音がある。

妻が何かを片づける音。

娘が歩く音。

テレビから聞こえる声。

妻が男へ普通に話しかけた。

男も普通に答えた。

娘が笑う。

妻も笑う。

男も笑った。

三人は、どこから見ても家族だった。

男だけが、全部覚えていた。

* * *

女の家。

朝の四時。

玄関の前にいた素の妻。

探偵だった空手の先生。

写真。

二万七千円。

離婚。

何事もなかった自宅。

公園。

冷たい妻。

ゴーカート。

自殺すると言った自分。

葬式に娘を連れてきてほしいと頼んだ自分。

娘の後ろに隠れ、右手でアクセルを、左手でブレーキを押した自分。

妻に見つかり、泣いた自分。

永遠の別れ。

全部、男の中に残っていた。

それなのに妻はここにいる。

娘もいる。

自分もいる。

男は何も聞かなかった。

妻も何も言わなかった。

* * *

娘が自分の話をしていた。

これからどうしたいのか。

何を選びたいのか。

男は聞いていた。

反射的に口を開きかけた。

それなら、こうした方がいい。

こっちの方がいい。

その方がきっと後で困らない。

言おうと思えば、いくらでも言えた。

大人だから。

父親だから。

娘より長く生きているから。

娘がまだ知らないことを、男はいくつも知っている。

だから教えることができる。

止めることもできる。

背中を押すこともできる。

別のものを勧めることもできる。

男は娘の顔を見た。

娘は、自分のことを自分の言葉で話していた。

男は開きかけた口を閉じた。

「そうしたいの?」

娘は頷いた。

「うん」

男は、それ以上何も言わなかった。

それが正しいのかは分からない。

父親として、もっと言うべきことがあるのかもしれない。

何も言わないことだって、場合によっては無責任なのかもしれない。

けれど、娘は自分のことを自分で決めようとしていた。

男は、それを聞いていた。

* * *

男はごみ袋を持った。

娘が気づいた。

「パパ、どこ行くの?」

「ごみ拾い」

「今日も?」

「うん」

男には、ごみを拾う習慣があった。

誰かに頼まれたわけではない。

仕事でもない。

誰かに見てもらうためでもない。

誰もいない朝にも拾った。

誰にも見られていない道でも拾った。

名前を知られることもない。

礼を言われることもない。

空き缶を一つ拾ったところで、世界が大きく変わるわけでもない。

昨日きれいにした道に、今日またごみが落ちていることもある。

それでも男は拾った。

誰かが踏むかもしれない。

誰かが嫌な気持ちになるかもしれない。

風に飛ばされるかもしれない。

なら、自分が拾えばいい。

それだけだった。

不思議なことに、人のためにやっているはずの小さな行為が、最後には男自身へ戻ってきた。

一つ拾う。

少し歩く。

また一つ拾う。

そうしていると、自分の中に溜まっていたものまで少しずつ片づいていく気がした。

誰にも見られていないところでしたことが、巡り巡って自分を少し軽くする。

男は、それが好きだった。

娘が言った。

「一緒に行く」

「行く?」

「うん」

男は妻を見た。

妻は何も言わない。

いつもの顔だった。

「じゃあ、行こう」

* * *

二人で歩いた。

娘が少し前。

男が少し後ろ。

空き缶が落ちていた。

男が拾う。

袋へ入れる。

少し先に菓子の袋があった。

「あった」

娘が拾う。

男が袋を開く。

娘が入れる。

また歩く。

男は娘の後ろ姿を見た。

小学一年生。

百十センチほどの小さな身体。

ゴーカートでは、アクセルにもブレーキにも届かなかった。

けれど今は、自分の足で歩いている。

男が何もしなくても進む。

止まりたいところで止まる。

何かを見つければ自分で近づく。

そして、また歩き出す。

* * *

娘が道端で止まった。

何かが落ちている。

男も気づいた。

いつものように屈み、手を伸ばした。

「パパ、それは拾わなくていいよ」

手が止まった。

「なんで?」

娘は足元を見た。

何でもないことのように言った。

「だって、それゴミじゃないもん」

男は伸ばした手を止めたまま、足元を見た。

何なのかは分からなかった。

誰かが落としたものなのか。

誰かが置いたものなのか。

必要なものなのか。

もう要らないものなのか。

男には分からない。

それでも娘には、ゴミではないものに見えた。

男はゆっくり手を戻した。

拾わなかった。

娘はもう別の場所を見ていた。

娘にとっては、それだけのことだった。

ゴミじゃない。

だから拾わない。

* * *

二人はまた歩いた。

ごみ袋は少し重くなっていた。

男は思った。

落ちているものを見つけると、何でも拾おうとしていたのかもしれない。

誰かのため。

娘のため。

家族のため。

そう言えば、いくらでも拾う理由は作れる。

けれど、人のために何かをすることと、その人のものまで自分が抱えることは、同じなのだろうか。

男には分からなかった。

分からないままで歩いた。

* * *

道が二つに分かれた。

右。

左。

娘が止まった。

男も止まった。

右の方が近そうだった。

左の方が歩きやすそうにも見える。

どちらが安全か。

どちらが失敗しないか。

男は考え始めた。

父親なら、決めてやった方がいい。

そんな考えが、いつものように浮かんだ。

その前に、娘が片方を指差した。

「こっち」

「なんで?」

娘は少し考えた。

「なんとなく」

それだけだった。

男なら理由をいくつも作れた。

安全だから。

近いから。

将来のためになるから。

失敗しにくいから。

けれど、娘が選んだ理由は「なんとなく」だった。

娘は、自分が選んだ道へ歩き出した。

男は止めなかった。

別の道を勧めなかった。

少し遅れて、その道へ入った。

* * *

男は娘の背中を見ながら、ゴーカートを思い出した。

娘はハンドルを握っていた。

アクセルには届かなかった。

ブレーキにも届かなかった。

だから男がやった。

進ませた。

止めた。

娘が小さかったから。

父親だったから。

それは間違っていなかった。

たぶん。

あのときは。

けれど娘の足は伸びる。

身体は大きくなる。

今日届かなかったものへ、いつか届く。

そのとき、自分の手はどこにあればいいのだろう。

男は答えを出さなかった。

* * *

娘が戻ってきて、何も言わず男の手を握った。

小さな手だった。

男も握り返した。

この手を失うくらいなら、自分の命などいらないと思ったことを覚えている。

それほど娘が大切だった。

何よりも。

自分よりも。

だからこそ、離したくなかった。

危ないものは全部取り除いてやりたい。

間違った道へ行きそうなら止めたい。

止まってしまえば背中を押したい。

それが愛なのだと、男は思っていた。

今も、そうなのかもしれない。

ただ。

愛していることと、握り続けることは同じなのだろうか。

男には、まだ分からなかった。

* * *

娘が突然、手を離した。

「あっ」

何かを見つけ、数歩先へ走っていく。

男の手には、何もなくなった。

男は空になった手を見た。

公園では、右手にアクセルがあった。

左手にはブレーキがあった。

進ませるもの。

止めるもの。

どちらも男の手の中にあった。

今は何もない。

娘は自分で走った。

自分で止まった。

しゃがんだ。

立った。

また、自分で歩き出した。

男はその姿を見ていた。

* * *

少し先で娘が振り返った。

「パパ」

「ん?」

「早く」

男は歩いた。

娘に追いつく。

二人で並ぶ。

今度は娘も手を握らなかった。

男も手を伸ばさなかった。

娘が進めば、男も歩く。

娘が止まれば、男も少し遅れて止まる。

けれど男が進ませているわけではない。

男が止めているわけでもない。

娘は、自分で歩いていた。

* * *

男は胸元に触れた。

古いネックレスがあった。

妻からもらったもの。

大切なときにつけてきたもの。

古くて、少しダサいと言われたもの。

新しいものへ替えなければならないのか。

古いものは捨てるべきなのか。

持ち続けることは執着なのか。

大切にすることなのか。

男には分からなかった。

ネックレスは外さなかった。

けれど、強く握ることもしなかった。

指を離した。

ネックレスは、そのまま胸元に残った。

* * *

また何かが道端に落ちていた。

男は気づいた。

けれど、足を止めなかった。

拾うべきものなのか。

拾わなくていいものなのか。

まだ分からない。

娘は少し先を歩いている。

そして、もう一つの分かれ道で止まった。

「パパ」

「何?」

娘が、片方の道を指差した。

「こっち行ってみたい」

男はその先を見た。

知らない道だった。

どこへ続くのか、男にも分からない。

「そっちでいいの?」

娘は頷いた。

「うん」

娘は歩き出した。

男は、その小さな背中を見た。

小学一年生。

百十センチほど。

まだ、できないことはいくらでもある。

父親の手が必要なことも、きっとこれから何度もある。

けれど、今日できなかったことが、明日はできるかもしれない。

届かなかったところへ、いつか届く。

男は少し遅れて歩き出した。

* * *

娘が歩く。

男も歩く。

アクセルはない。

ブレーキもない。

ハンドルさえない。

娘は自分の足で進んでいる。

男も、自分の足で進んでいる。

同じ速さではない。

同じものを見ているとも限らない。

いつまで同じ道を歩くのかも分からない。

男は娘を呼び止めなかった。

手も伸ばさなかった。

ただ、その背中が見えるところを歩いた。

娘が先で振り返った。

男を見た。

何も言わず、また前を向いた。

男も前を向いた。

片手には、拾ったごみの入った袋があった。

もう片方の手には、何もなかった。

男は、その手を握らなかった。

何かを拾おうともしなかった。

娘が選んだ道を、

少し後ろから歩いた。

アクセルにも、

ブレーキにも、

もう手は伸ばさなかった。

第五章 了

おわり

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